彌美(みみ)神社の例大祭は毎年5月1日に行われます。王の舞(おのまい)は午後4時頃から始まります。彌美神社の御祭神は室毘古王(ムロビコノミコ・開化天皇の孫)で、崇神天皇の時代に三方郡一帯を統治していたと言われています。彌美神社の氏子集落は新庄、麻生、東山、野口、佐野、上野、宮代、中寺、寄戸、五十谷、安江、興道寺、佐柿、坂尻、河原市、和田、南市、栄です。他に小倉、木野、雲谷も氏子集落ですが、例大祭には参加していません。
木野が祭礼に参加しない理由は、木野神社は彌美神社の親あるいは格上であるからとも、大同家(木野の姓のほとんどを占める)の先祖、大同兵衛盛近が坂上田村麻呂に従って鈴鹿山で上げた戦功により祭礼の諸役を免除されたとも伝えられています。
この彌美神社の例大祭に奉納される王の舞は福井県及び美浜町の無形民族文化財に指定されています。
王の舞の装束の色は鮮やかな赤、頭には鳳凰の鳥兜、天狗の面は深い赤で、鼻は円柱形ですっとしています。だてさげと呼ばれる赤前垂れを着け、白い手甲、白い足袋(履物は履いていない)で、腰に刀と白扇を差しています。鉾を持って拝み、種播き、地回り、犂起こしの舞を繰り返し、鉾返しを行った後、再び、種播き、地回り、犂起こしの舞を繰り返し舞い、鉾を放して肩のしょう、腰のしょうを行い、約1時間の舞が行われます。
舞い手は未婚の青年(昔は長男のみ)で、麻生(あそ)地区(4年)と東山地区(1年)が王の舞を舞うと決まっています。
彌美神社の王の舞は数ある氏子集落のうち麻生地区(東山地区も5年に1度引き受ける)により舞うこととされています。麻生地区では以前は「清義社」という青年による組織で王の舞の保存継承を行ってきたということですが、近年の人口の減少等により、現在では「王の舞保存会」が結成され、麻生の王の舞の保存にあたっています。
・王の舞については、これを記した文書等は存在せず、人から人へと伝えられています。
・昔は舞い手は4月7日に決められ(王の舞定め)、区長と舞い手は盃を交わしたそうです。王の舞定めの後は、舞い手は当屋(とうや)に寝泊まりし、王の舞の練習に専念したそうです。その指導役は前年に舞った舞い手(師匠)と、前々年に舞った舞い手(大師匠)が担当することになっていたそうです。
・舞い手は、舞の間は足の裏を見せてはならないといわれています。
・彌美神社の王の舞は女の舞と言われ、舞い手は未婚の男性であるが、しなやかに女性の仕草で美しく舞うこととされています。
・昔はよい舞が演じられると、「ええ女子(おなご)~」との掛け声が掛かったそうです。
・舞い手は、王の舞を終えた後は、装束を紋付の羽織に着替えた後、人に見られないように本殿に向かい、未使用の白扇を本殿前で封を切って半分広げ参拝し、獅子舞が終わるまでに人目を避け、下の鳥居(石鳥居)をくぐらなければならないこととされています。
・ゆったりとした舞に見えるが、かなりハードであり、また、面をつけているため視界が狭く、バランス感覚をとるのが大変で、舞い終わった後はへとへとになるそうです。
・王の舞は彌美神社で奉納される前に、麻生地区の八幡神社にて30日の昼に世衆に向かって一舞、同日夕刻に八幡神社へ奉納するために一舞、当日朝に御膳(神饌)に向かって一舞します。
・30日に王の舞を舞う前に舞い手は和田海岸へ赴き、体を清め、帰りに海水一升とホンダワラという海藻を持ち帰り、当家の風呂に入れて5月1日当日の役付きの人々に入浴して清めてもらうしきたりがあります。
・当日朝王の舞の舞い手は村発ちの際、一夜お神酒をいただいた後は彌美神社につくまでは一言も言葉を発してはならないことになっています。
・現在王の舞は獅子舞の前に演じられますが、昔は獅子舞・王の舞の順だったところ、獅子舞を見て帰ってしまう人が多かったため順を変えたといわれています。