みはまの神話・伝説


【新庄の神話~彌美神社の発祥・例祭~】

福井県美浜町の宮代(みやしろ)という地区に彌美神社(みみじんじゃ)という神社があります。このご祭神は、新庄区の大日(だいにち)というところにある仏洞(ほとけぼら)に降臨したという言い伝えがあります。

伝説によると昔、新庄の大日という地籍の一角に仏洞と呼ばれるところがあり、ここのヨボの木(リョウブ)に金の御幣がかかっていて、この御幣をお祀りしたのが彌美神社ということです。新庄が彌美神社の発祥の地と伝えられています。

彌美神社の祭神は室毘古王(むろびこのみこ)(開化天皇の第3皇子である日子坐王(ひこいますのみこ・彦坐王とも)の子)で、若狭之耳別(わかさのみみわけ)という一族の祖とされます。この耳別という一族が統治していた地域を、その名にちなんで耳の庄と呼び、耳川という川の名にも、また、耳村という村の名にもなっていました。現在では、耳川の名は残り、耳村は地区の名前(耳地区)として残っています。

室毘古王一行は大和の国より若狭の国に入り、大日沢の仏洞の近くに耳平野を一望できる峠があることから、この仏洞に滞在し、統治の計画などをたてたといわれています。そこで室毘古王のお姿を、この仏洞のヨボの木にかかる金の御幣に重ねたのではないでしょうか。

毎年5月1日の彌美神社の例大祭には、新庄の集落で、ヨボの木を幣串とした一本幣といわれる御幣と、コブシの木を幣串とした御幣を7本束ねた七本幣(新庄の7村を表わしているともいわれます)とを作り、朝に彌美神社へ持参します。また、新庄区以外の地域当番によりヨボの木で作られた大御幣が祭礼の朝社前に持参され、各集落の御幣とともに幣招きという儀礼を終えた後、一旦参道入口まで降りて高台に据えられます。新庄区で作られた一本幣が金の御幣を表す祭神(室毘古王)で、七本幣は室毘古王率いる耳別の一族を表わしているといわれています。また大御幣は耳別が統治していた原住民を表わし、幣招きの儀礼は原住民が神に対して挨拶をし、指示を仰ぐ儀とされています。

祭礼では新庄の一本幣、七本幣を先頭に各集落の御幣が続き、その後に王の舞、獅子舞という順で行列し、社前から参道入口の大御幣のところまで降り、そこで神が大御幣に乗り移るとされる、幣迎えという新庄の両御幣と大御幣との対礼の儀が行われることから始まります。その後王の舞、獅子舞が大御幣と対礼を終え、行列は社前に向かいます。大御幣はその後威勢よく押し立てられて進んでいきますが、この際に万が一でも一本幣を追い越すことがあれば、一本幣を逆手にかざし大御幣をはたき落しても差し支えないとの言い伝えがあります。ここで大御幣を押し立てることは、原住民が神の指示に従い開拓事業等に従事する様子を表わしたものと解釈されています。

この行進が社前に達すると一本幣と七本幣は本殿に納められ、王の舞と獅子舞は各々の控え場所へ控えます。その後大御幣を押し立てて本殿に押し上げようとする「上げ番」とそれを阻止しようとする「下げ番」とにより、参道を往来する幣押し(御幣の儀)が「上げ、下げ」の掛け声とともに行われますが、適宜の時間になると大御幣とともに大御幣差(おおごへいさし)という役割の男の子を担ぎあげ、社前の石段を「上げ、上げ」の掛け声とともに押し上げられて大御幣は本殿に納まります。大御幣とともに男の子を押し上げることは、神の偉業が完成し、祝福するとともに神に感謝の念を捧げ、神に仕えることを誓う意味ととらえられます。

その後、宮司により一本幣と七本幣が持ち出され、拝所において拝戴の儀(神の御神徳を戴く儀式)が行われ、その後に王の舞(福井県の無形民俗文化財に指定されています)、獅子舞が奉納され、祭礼は終了します。

美浜町郷市にある獅子塚古墳の被葬者は、この彌美神社の祭神、室毘古王という説もあります。


【身代わり地蔵~大藪の金焼地蔵尊~】

美浜町大藪にあるお寺には、桧の一木彫作りの三尺地蔵尊「金焼地蔵尊」(像高94.5cm)があります。 

弘法大師の手彫の作といわれています。ある場所から毎夜光を放つものがあったため、村人が不思議に思ってその場所を尋ねたところ、 木像三尺の地蔵尊が巌石の上に立っておられたので、歓喜してこれを迎え、山の下に仮の草堂を建てて安置しました。しかし、日がたつにつれて忘れられていきました。 

その後のある時、この村に小作人を大勢使用する大庄屋がいて、一人の若い下女を雇い入れました。その下女は毎朝飯を炊くと握り飯を一つつくって、田の中のお堂へこっそり持っていっていました。その様子を、下男が見付けて主人にそっと耳打ちしたところ、主人は下女にかくし男でも出来たのではないかと思い、いろいろと尋ねました。しかし全く答えようとしないので、 短気な主人は腹をたてて、傍らの火桶に差し入れてあった焼きごてをいきなり下女の顔に押し当てました。下女は悲鳴をあげて部屋に逃げこんでいきました。 

しかし、あとで下女の顔を見ると火傷の痕が見えません。驚いた主人が、再び尋ねたが下女もわからないといいました。そして下女は今まで自分が 握り飯を運んでいたのは、日頃信仰しているお地蔵様であることを告げました。 主人が下女に案内されて地蔵堂へ来て見ると、木像の額が焼けただれていたので、おそれおののきその地に伏して悔やみ、立派なお堂を建ててお祀りしたそうです。 

この金焼地蔵尊は毎年7月23日に開帳されますが、今でも火傷らしい痕が見られるということです。(美浜町商工観光課ホームページより)


【天孫降臨福井県美浜町説】

「天孫降臨の地は美浜町日向」という学説を基に美浜、若狭両町の町づくりをする「ドリーム&ロマンの会」(山崎俊太郎会長)が、美浜町宮代の彌美神社に「皇孫ニニギノ尊宮殿の郷」と記した石碑を建立しました。石碑は25センチ四方で、高さ1.3メートル。脇には、友田氏の著書「天孫降臨の原義」の記述を紹介する看板が立てられています。

天孫降臨とは、天照大神の孫である瓊瓊杵尊(邇邇藝命・ににぎ)が、国譲りを受けて、日本の統治のために降臨したという日本神話の説話で、通説では九州の筑紫(宮崎県)の日向の高千穂に天降ったとされていますが、(故)友田吉之助島根大学名誉教授は、著書「天孫降臨の原義」において、『ニニギノ尊を実在の国王とみなし、降臨の地は九州筑紫の日向(宮崎県)の高千穂の峰ではなく、福井県三方郡美浜町大字日向(ひるが)の梅丈岳と推定する。記紀の国譲り神話においては、出雲国の統治権を委譲したのに、なぜ天孫は出雲国へ降臨せず日向国に降臨したのか、そこに矛盾がある。他方、日向降臨神話においては、この地が「韓国に向ひ」とあるのに、太平洋に向かい朝鮮半島に向っていない、ここにも矛盾がある。しかるに福井県には、日向・日向湖の地名があり、また梅丈岳は韓国に向っているから、日向国の原形の地にふさわしいと推定される。さらに三方郡に集中する「王の舞」は猿田彦神の化身、天孫はトンボの化身』等々の所説を述べられています。


【機織池の伝説】

昔、住み込みで働いていた機織りの娘が、機を織り終わるまで恋人に会いに行くことを許されず、ようやく何年もたって織り終わり、冬の満月の夜に機織りを背負って椿峠を下り、坂尻の池の向こうにる恋人の姿を見つけ、駆け寄ろうと氷の張った池を渡ろうとしたところ、突然氷が割れ、娘は池に落ち死んでしまいました。その後夜になると機を織る音が聞こえてくるので村人は機織姫社を造営し、後に一言神社に合祀されました。今はその池は水田になっています。(ちょうど千鳥苑というドライブインの向かいの広大な水田が以前は池になっており、今は山手の方に一部分だけが池として残っています)


【大男がかついできた山】

美浜町は、北の方が海に向いているだけで他の三方はどこを見ても山ばかりです。いちばん高い山でも1000メートルをこえるものはなく、巨人の世界の者から見たなら、それはまさに箱庭の山にすぎなかったかも知れないが、それにしても天王山(てんのうやま)(330.7メートル)や、御岳山(おたけやま)(548.9メートル)など、わが町のシンボルともいうべき美しい姿の山です。

大昔そのあたりはなにもない野原であったそうな。ところがある日、大男がモッコに山をいれて、大きな丸太棒をにない棒にしてその両方にひっかけてかつぎ、どこからともなくのしッ、のしッと歩いてきた。なんのために山をかついできたのかはわからないが、まるで山を売りにきたかのように、楽しげに歩いてきた。それでも疲れたと見えて、「ちょっとひとやすみ」というと、そのモッコを北と南の方角におろし、にない棒にしてきた大丸太をドスーンとおくと、その丸太の重みで大地が細長く南北に凹んでしもうた。

大男が休んでいるうちに、どうしたことか大地におろした山の荷物に根が生えてしまいいくら丸太でかつごうとしても、びくとも動かなくなってしもうた。そこで大男は、山をかつぐことをあきらめて、丸太棒だけをもって何処かへ行ってしもうたそうな。

このようにして、北の方にできたのが天王山で、南の方にできたのが御岳山だといわれている。大男がにない棒をほかしてきた凹みには、いつしか水が流れだして耳川になったというし、大男が腰をおろしたので、小倉山(おぐらやま)(74.4メートル)のてっぺんは平らになり、わらじの砂をはらったら、その砂で、いま稲荷さんがまつられている城山(じょやま)ができた。

なんでもこの大男は、弁慶というたいへんな力持ちで、源義経という侍と力比べをして、そこらにあった大岩をつかんで、力いっぱい投げたら、新庄から江州(滋賀県)へ越える峠みちのそばに、どすんと落ちた。その大岩の中ほどをくり抜いて、馬頭観世音がまつってあるが、弁慶がその大岩に指をつっこんで、つかんだしょうこに、親指と人さし指のいかい穴が二つあいとるんじゃそうな。(話者 新庄-小林儀太郎、再話 小林一男)


【大蛇伝説~日向水中綱引き~】

毎年1月15日に開催される美浜町日向の水中綱引きは国選択無形民俗文化財となっている伝統行事です。

古文書によると寛永12年(1635年)、波で浜が侵食され船を上げるところが日向似なくなってしまったため、日向湖と水路をつないで船溜まりにしてほしい旨を小浜藩主酒井忠勝に願い出て、水路を開削してもらい、その後は大漁が続いたと記録されています。日向の水中綱引きは酒井忠勝による水路完成を祝い、海上安全や豊漁を祈願して、忠勝所縁の武蔵国川越の風習(1月15日に綱引きをして1年の吉凶を占う)にならい毎年1月15日にこの水中綱引きが始められたとみられています。

また一説には、むかしこの水路に大蛇が出て行き来する船を襲うなど悪さをしたため、船が通れずに村人たちは大変困っていました。村の識者に相談したところ、「蛇は自分より大きいものに恐れる性質がある。」というので、村人はヘビを模した大きなわら綱をつくり運河に張っておくと大蛇はその後出なくなり、その縁起の良い綱に少しでも触れようと海中で引き合ったのが、この水中綱引きの由来だという話も語りつがれています。 


【恋の松原】

気山の久々子(くぐし)湖のほとりに「恋の松原古墳」(美浜町指定史跡)があります。 

湖畔に松林があり、緑の木かげが数百歩の間連接している。ここを恋の松原という。 むかし男と女があり、ここで会うことを約束した。女が先に来たが、その日はたまたま大雪で、そのため男はまだ来ていなかった。女は信を守って去らず、ついにしいの橋の下でこごえ死んだ。 故に人は恋の松原と呼んだ。しいの橋は上瀬(うわせ)社の東数百歩の所にある。しいの木の根が渓流に横たわり橋となっているのでこの名がある。今はない。またこのとき女が雪の山坂を恨んだので、その山を恨み坂山と称する。今は浦見坂と書いている。男もまた恨んで湖に身を投げて死んだ。」という伝説が伝わっています。

恋の松原のルーツを訪ねてみると、鎌倉時代の初期にはすでに、藤原為家が次の歌を詠んでいます。

「逢うことを いくとかまたん 若狭路の 山のくろつみ つみしらせはや」

若狭郡県志には、「恋の松原は上瀬神社の東北に在り」とあります。平安時代中期には、この辺り一帯は松林で、「恋の松原」または「古美(こみ)の松原」と呼ばれていたようです。

さらに三方郡誌には次のようにあります。

恋の松原気山にあり。宇波西神社の東北の地を言う。恋の松原は、「八雲御抄」並びに、「夫木抄」にも若狭とあり、里人は此処とし常に〝こみの松原〟と称す。伝えいう、往古一男一女あり、密にここに会せんことを約す。女、先ず到りて待つ。時に大いに雪降り、男来らず、女約を守りて去らず。遂に、椎橋の下に凍死したりき。当時、この地松原なりき。故に恋の松原と称すと。後の人その墳を築き、また、謡曲を作れり。

 


【岩屋大師堂~おだいっさん~】

太古の昔、久々子海岸の西端に位置している弁天岬の端の蛇洞に一頭の女蛇が棲んでいました。 一方、対岸の和田岬の蛇洞には男蛇が棲んでおり、互いに行き来していました。 その龍蛇が出て来て遊びまわるために度々海が荒れ、村人たちは困り果てていました。 延暦の頃、弘法大師が若狭を順錫されていたとき、たまたま久々子の地に錫を止められました。 その時、村人等の話しを聞き、一人で岬へ行き現在の大師堂内にある巌窟に立てこもり行を成された後、 蛇洞の巌頭まで行き女蛇に仏戒を授けられました。すると龍蛇はたちまち苦患を脱して昇天しました。 そこでこれを弁財天として祠におまつりされたと言います。現在境内の東の宗像神社がそれです。 以後、海上安泰・庶民福寿の守護として村人たちに大切にまつられ、 また大師禅定の洞窟には後年大師の徳を慕う人々により大師堂が建てられ今日まで広く信仰を集めています。 

毎年7月中旬には3日間村をあげて盛大に弁天祭が行われており、 御神体をお神輿で村の若衆がかつぎ、船にのって海を渡り村のお仮屋に安置され、 二夜おまつりされます。 3日目はそのお神輿で村中を練り歩き、再び船で海を渡り戻され祭りが終了します。 2艘の船を合わせ5色の吹流しを幾本もなびかせ御神体が海を渡るとき、 白装束に赤はちまきの若衆が、御神体を楽しませるため次々に海に飛び込む姿は勇壮で、 優美さにもあふれる風景です。 

御詠歌

『空海の 法(のり)の験(しるし)は 荒磯(あらいそ)の 龍女(りゅうにょ)も和(な)ぎて 仏となりぬ』

(美浜町商工観光課ホームページより)


【波よけ地蔵~佐田・関峠~】